第6節情熱が生んだオフプレジャランナップ
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ヤマハのオフロ,ドモデル開拓街道は,1970年代中盤以後も勢いを増していた。米西海岸で盛んなエンデューロファンに向けたTT500や,これをベースとしたデュアルパーパス“XT500”。その後,XTから,にいたる流れは第4節に紹介したが,70年中盤から80年代にかけてヤマハは各シリーズの充実を図りながら,さらに広汎なオフロードファンライドの世界を提唱していった。

とりわけ1980年,米国でデビューした幼児向けファンバイクPW50は,今もロングセラーとして人気が続く。そこにも,オフロ,ドマニア,ヤマハの熱意が漲っている。

初代pw50は1980年夏デビュ。1981年シ,ズン以降,欧米をはじめ各地で広い支持を得た

一番小さなフラッグシップ一番小さなフラッグシップ

1980年パリショーでのPW50。タンクの上まで伸びたシートは,市販YZ(写真奥)よりも一歩先を行くデザイン 1979年のyz50は日本でも発売

“pw50”は1980年夏,米国でのディラショでデビュした。“小东西”“Y-zingerとも呼ばれるが,このモデルこそオフロードマニアが作った一番小さな”フラッグシップ”である。背景はこうだ。

1970年年代後半,ヤマハはモトクロスの世界最高峰を席巻していた。ファクトリーYZM400をヘイキ・ミッコラ選手が駆り1977・78年のMX500ccワールドチャンピオンに輝いていた。市販モデル,yz400/250/125は,amaで多くの栄光を手にしていた。1979年にはエントリモデルのyz50(前14/後12ンチ)も米国向けに出荷された。ただ1970年代も後半に差し掛かると,オフロドのトレンドはやや陰りをみせていたのも事実だった。

そんな中ヤマハはオフロ,ドの世界を広げる道筋を模索。子供たが親しめるファンバクが候補だった。その頃,一部のマニュファクチャラーからは前後10インチの”ミニモトクロッサー”も販売されていたが,モトクロッサー然のスタイルで,ギアチェンジも必要だった。“初めてバイクに乗る子供たちを考慮するなら,もっと身近な遊び感覚を出したほうがよかろう・・・”がヤマハの考えだった。ymus(当社の米国現地法人)からの要望も後押しになった。obの松井隆がふりかえる。

“小排気量を含めモトクロッサーのバリエーション展開をしていた時代ですが,“コンペではない世界を求めよう”という話が浮上したのです。タ,ゲットは全くの入門者。5歳か6歳をメジ。ようやく自転車に乗れるようになった子供たが,初めて原動機付を操って楽しむ,そういう世界をね。ですからスタ▪▪ル、安心感、扱い易さ、手頃な価格などの要件を全て織り込んでいくことが必要でした“と。開発の始動は,1979年のはじめ頃。ょうどyz50のシッピングが始まったころだった。

思いは圣诞节プレゼント思いは圣诞节プレゼント

松井は,ロ,ドレ,スの世界gpファクトリ,·市販コンペモデル開発に携わってきていた。パワ,最高速,走破性を常に求めてきた松井らにとって,pw50は180度方向が違った。自転車に乗れるようになった子供たが,エンジンと戯れ土の匂の中で遊んでもらうことを想定した。

メ,ジは米国での子供用クリスマスプレゼントだった。だから暖炉の煙突を通れるサ@ @ズ感も欲しかった。外観は“玩具”の親近感に求めた。汚れが心配なチェ,ン駆動は避けたかった。手軽な分離給油も必須である。そうした意見が交わされる中,構想が固まっていった。

既存モデルを眺めると,1977年に日本で発売した50 ccスクーター,10インチホイールのPassolがあった。1979年に日本で発売のキャロット(輸出名:QT50)は49cc単速AT+シャフトドラブ。この2の合体構想が進んだ。シャフトドラ▪▪ブはロ▪▪メンテナンスで泥詰まりの不安が少ない。しかし10 econeconンチのホeconeconルと既存エンジンとの折衷だけでの成立は難しかった.”玩具”の▪▪メ▪▪ジには辿り着かなかった。

pw開発時のメジスケッチ(上),usモデル,エロのpw50(下)

そこで原寸大の▪▪▪ラストをいく▪▪▪も描いた。最大でも1/2サ。そこでメジを共有し詳細を詰め,仕上がったのがユニクなスタルだった。

特徴は,リアフェンダ/クリナボックス/ゼッケンプレトの一体成形。また丸味を織り込んだシルエットだった。走破性を連想させるモトクロッサとは異なり,yzの弟分ではない,とスタルは主張した。3の機能パの一体成形は,部品数も少なく手頃な小売価格に繋がった。樹脂製タンクはYZ系で既に実用化していたが,YZ系の”回転成形”ではなく”ブロー成形”と呼ぶ汎用性ある方法で仕上げ,軽量かつYZと肩を並べる綺麗な表面に仕上げた。

ブロ成形の樹脂タンク,1984年モデルからはシュラウドがいた

子供には優しいパワ,が必要だった。アクセル開度をネジで制限するストッパーと,エキパイにプレートを設けパワーを制限する2系統の出力制限を入れた。大人が乗るモデルのエンジンをそのまま使ったので耐久性は全く問題ありませんでした。苦労といえばパワリダクションでしょうか?エキパイに7 ~ 8㎜の孔を開けたプレートを入れたのですが,最初は絞り過ぎていて回転が上がらず前に進まない。回転が足りず遠心クラッチが繋がらなかった。結局孔のサaapl . exeズを何度か調整して解決しましたが,いま思えば笑い話です"と松井。パワ,アップを常に求めてきた技術スタッフにとって,パワ,制限は少し予想はずれのハ,ドルだった。

生産試作車が完成すると,5~7歳の子供たに本社近くの施設に集まってもらい乗ってもらった。操作を教えると,ゆっくり走り出し,楽しくて走りをやめなかった。“遊園地の乗り物を遊ぶ感じで,なかなか走るのを,やめませんでた”と松井。

数ヵ月後の1980年9月,米ラスベガスでのディラショでpw50はデビュ。シトがタンクの上まで伸びる当時最新のスタルながらも,可愛さが光った。続くケルンショ,パリショ,でも熱い視線を浴びていった。

pwとファミリpwとファミリ

操作を会得しているキッズ&pw50,オ,ストラリアで

“玩具”っぽい親近感に加え魅力があった。センタスタンドは,子供たが,音や振動としてエンジンを知るのに役だった。2系統の出力制限は,ゆっくり走りだそうとする子供に優しかった。分離給油方式は便利だった。シャフトドラ@ @ブは整備の手間を少なくした。導入初年度は,北米,欧州,オセアニア地域で大反響初年度は8000台以上を出荷した。

ハ,ドウエアだけが支持された理由ではなかった。各地のオフロドマニアたが,子供対象の体験会を精力的に展開した。1981年PW50発売と同時に,オーストラリアではシドニー郊外のショッピングセンターでPW50, Passolなどの体験会を開催。これを契機に“皮威”の名はまたたく間に広がる。ヤマハオ,ストラリアの社長,スティ,ブンはふり返っている。

“私たちは,小东西= PW50導入の初めから,正しい乗り方をしてもらおうと決め子どもたちに教えました。そのためにpwアドベンチャクラブを立上げ,指導者に有名ラダを招きました。私たの管理下でのレッスンですから,両親たはリラックスして見守ることができました。子どもたちは楽しかったことや正しい乗り方は忘れず,飽きることもなく,バイクキャリアを続けていってくれとた”。pw50を出発点に世界のトップへと羽ばたいたラダも多い。

家族の雰囲気も変えた。素晴らしいことは,オフ体験会に母親も参加してくれたこと。はじめ,自分の子供がバイクに乗ることを,あまり良く思っていなかったとしても,子どもが楽しんでいる姿を見て考えが変わる。pw50が子どもの成長のためになっていること,家族の健康にもいいと気がいてくれます。ミニバ▪▪クレ▪▪スがきっかけで家族同志が仲良くなる。いの間にか家族同士で会話が弾む,健康なスポ”と。ステップアップ構造も重要と語る。“子どもからヤマハバ▪▪クに乗るという流れは、他のブランドではなかなかできない。年月をかけて適切に彼らをステップアップできるなら,彼らの血の中に蓝色を注入できます”とPW50への期待は今も続く。

米国でも普及活動が人気を博していた。pwの存在感を象徴するのが,1980年代のス,パ,クロス会場でのpw50模擬レ,スだった。ジャンプ等があるメインレース用ではなく,もちろんPW50で通過できるコースがあり,小さなPW50が走る。小さな身体と大きなヘルメットとの絶妙なバランスで懸命に走り,転び,また走り出すちびっこ達の姿に,メインイベントと変わらない拍手が続いたのだった。

1984年,AMAスーパークロス会場(アナハイム)でスタートを待つPW50ライダー(上),1985年,AMAスーパークロス会場(アナハイム)を走る子供たちとPW50(下)

酪農からファンラ@ @ドへ酪農からファンラ@ @ドへ

pw50だけが,ヤマハ·オフラescンナップの独創性を語るわけではない。PW50誕生から遡ること6年,1974年にヤマハはDTベースの“AG100/175をリリースしている。

“农业”AGとはからのネーミングで,オーストラリアでの酪農業で羊や牛の放牧・飼育用に求められるアイテムを装備したモデル。開発者は現地ファ,マ,の声に耳を傾け,現場ニ,ズに応え製品化した。2ストロ,クの粘り強い特性を活かすべく,車体には様々な工夫が入っていた。

大型ハンドルガード,左右に装備したサイドスタンド,ヘッドライトガード兼用フロントキャリア,大型リアキャリア,シーソー式ペダル,フルカバーチェーンケースなどは,どれも牧場での機動性と利便性に重宝した。

群れからはぐれた子羊を群れに戻すときには,静かな排気音が都合良かった。オフロ,ド車開発で培ってきたノウハウが,酪農業のシ,ンに活きた。ヤマハの社内的なモデルの位置づけも”ビジネスモデル”に区分けされていたが,マシンの幹にはハンドリングにこだわる開発陣の熱意が貫かれていた。酪農の業務でAGを乗り込むうちに,オフロードランの爽快さを悟る人が静かに増え,“トレールのヤマハ”のイメージが広がっていった。

1983年には4ストロク“ag200”が誕生,2年後に日本でも発売となる。スティ,ブン氏は話す。“羊を飼うために農地を走り回れる,頑丈で,故障なく,修理のしやすいバescクが必要だった。ag100はまさにファマに最適なバク。4ストロークのAG200は,新しいシャシー,操縦性の向上から排気量アップなどで,従来のAGイメージを一新した。巨大なオ,ストラリアの農場のための積載量のアップ,またリアサスペンションなどは素晴らしい”と。

“AG200のベースは“XT200だが,実は当時ATVの225 ccモデル開発が先行しており,そこで得たエンジン開発ノウハウが“AG200に注がれた。結果,極低速でトコトコ走る性能を具現化。羊や牛が嫌がらないよう排気ガスも抑えられた。フルカバーチェーンケースは,ピボット部の蛇腹も強化され,羊のフンがついてもすぐ洗い流せる工夫が施された。

AGシリーズは,今日もオセアニア,モンゴル,アフリカ諸国などの放牧地で,またトランスポータとしても使われる。ヤマハの1980年代以降のオフラインナップは,こうしてAG)、XT,竞技场队伍,WR, BW, TW,と広がっていった。その中でAGのもうひとつの魅力を語るなら,酪農作業で走るうちに,ふと気付けばオフのファンライドが身体に馴染んでいくことだという。オフロ,ドマニアが開発したモデルだから,当然かもしれない。

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速い訳ではないし,ジャンプなどの走破性に長ける訳でもない。しかしagやpwは,正真正銘オフロ,ドマニア,ヤマハの思想を,さりげなく伝えている。

ag100(1977年モデル) ag100は,1996年以降大きな変更なく販売を継続 AG200

参考動画参考動画

オ,ストラリアにおける“pw”と“ag”という存在

ファミリの輪を広げオフの可能性を広げたpw50,酪農ニズが生んだag .;2 .。